民芸の趣旨

   序

 民芸とはどう云う意味なのかと私は度々聞かれます。一々言葉で

お答えする代りに、文字に托したのが此小冊子です。

 それに近頃民芸と云う言葉が方々で使われる様になりました。

併し意味を取り違えたものが非常に多いので、もとの趣意を平易に

簡明に記す必要を感じ、ここに筆を執るに至ったのです。



  一  民芸の語義

 民芸とは新しい言葉です。それが為或いは之が民俗芸術の略字と

も解され、時折農民美術とも混同されました。又民衆芸術と云う華

美な言葉にもとられました。併し吾々はもっと質素な意味で、民衆

の民と工芸の芸とを取って、此字句を拵らえたのです。それ故字義

的には民衆的工芸の謂なのです。云わば貴族的な工芸美術と相対す

るものです。一般の民衆が日常使う用器が民芸品なのです。之を約

めて民器とも呼び得るでしょう。何人の生活にも必要な調度、即ち

衣服、家具、食器、文房具等、皆此中に入ります。俗語で下手物と

か粗物とか雑具とか呼ばれる雑器の類は、凡て民芸品に属するわけ

です。

 それ故民芸には二つの性質が数えられます。第一は実用品である

事、第二は普通品である事。裏から云えば、贅沢な高価な僅かより

出来ないものは民芸品とはならないわけです。作者も著名な個人で

はなく、無名の職人達です。見る為より用いる為に作られる日常の

器物、言い換えれば、民衆の生活になくてならぬもの、普段使いの

品、沢山出来る器、買い易い値段のもの。即ち工芸品の中で、民衆

の生活に即したものが広義に於ける民芸品なのです。

 ですが私達は此意味を、もう少し狭義に厳格に解して、民芸品が

当然有つべき特質を規定したいのです。只民衆的な実用品と云って

了えば、現に店頭に並ぶあらゆる安ものも此部類に入るわけです。

ですが私達はそれ等のものの中から、或素質を有ったものを民芸品

と呼びたいのです。即ち用の目的に誠実である事を、その本質に数

えたいのです。近頃機械工場で濫造される製品は、全く商業主義の

犠牲であって、利が眼目である為、用が虐げられているのです。同

じく用器とは云いますが、一時まに合わせの誤魔化し物であって、

用には極めて不忠実な粗悪なものとなっています。之と共にあの風

流をねらった所謂雅物は、趣味の犠牲に堕したもの多く、無用な飾

りや単なる思いつきの為に歪められているのです。ここでも用は二

の次になって、とかく軟弱な病的なものに流れがちです。ですが実

用品であるからには是等の事を深く慎んでいいのです。かかる性質

は凡て生活への奉仕に背くからです。

 従って民芸品と呼ばれる為には、用途を誠実に考えた健全なもの

でなければなりません。それには質への吟味や、無理のない手法や、

親切な仕事が要求されます。かかる事のみが生活に役立つ誠実な用

器を産むからです。近頃のものを省みると、質よりも見かけに重き

を置き、親切に作るよりも出来るだけ手をぬき、繊弱な醜悪なもの

となっています。色が俗であったり、姿が痩せたり、じきに毀れた

り、剥げたりするのも、用途に対する不誠実から来るのです。私は

それ等を不道徳な工芸品と呼びたいのです。

 それ故民芸とは、生活に忠実な健康な工芸品を指すわけです。吾

吾の日常の最もいい伴侶たらんとするものです。使いよく便宜なも

の、使ってみて頼りになる真実なもの、共に暮らしてみて落ち着く

もの、使えば使う程親しさの出るもの、それが民芸品の有つ徳性で

す。それ故質素であっても粗悪ではいけないのです。安くても弱け

れば駄目なのです。不正直なものや、変態的なものや、贅沢なもの

や、それ等は民芸品として最も避く可き事柄です。自然なもの、素

直なもの、簡素なもの、丈夫なもの、安全なもの、それは民芸の特

色なのです。一言で云えば誠実な民衆的工芸、之がその面目です。

その美は用途への誠から湧いて来るのです。吾々はそれを健康の美、

無事の美と呼んでいいでしょう。


  二 民芸の必要

 工芸品の大部分を占めるものは、生活に必要な器物の類です。若

し工芸の世界を健全に発達させようとするなら、量に於いて最も多

いそれ等の用器を、質に於いて高めねばならないでしょう。丁度少

数の人間が優れても、大衆の素質が低いなら、立派な社会を形造る

事が出来ないのと同じです。今まで日用品は、普段使いだからと云

う気持ちで、どんなものでもかまはない様に考えられて来ました。

併しそれ等のものが粗悪な限り、工芸による美の王国は成就される

事が無いでしょう。特殊なごく少量のものが美しくなったとて、世

界に救いは来ないからです。僅かの坊さん達にだけ信心が残るなら、

宗教の時代は去ったと云ってもいいでしょう。神の王国を来らす為

には、信仰が汎く衆生に行き渡らねばならないのです。私は同じ様

に工芸時代を此地上に来たらす為に、日常品の救いを極めて重要視

する者の一人です。民芸品は用器中の用器です。その堕落は直ちに

工芸の頽廃を意味するのです。民芸の興隆がなくば、工芸は変則な

歩き方を続けねばならないでしょう。私はここに日常品が美しかっ

た時代が、何れの国にせよ、最も盛んな工芸時代であった事に言及

する要はないでしょう。私は又卓越した過去の工芸品が民器の中に

最も多く見出せると云う明確な事実を、繰り返し述べる要はないと

思います。

 近頃は人間の美意識に曇りが来ました。原因は色々あるでしょう

が、日々の用器が醜くなって来たのも慥かにその一因です。なぜな

ら私達が四六時中一番多く眼に見、手に触れるものは日常の器物で

す。私達は衣を着、食器を手にし、家具を用いる生活を毎日繰り返

して行くのです。それ等の品々が識らずして吾々に及ぼす影響は甚

大なものだと考えます。

 近頃の粗悪な品は、人々に物を粗末にさせる習慣を与えて了いま

した。昔の人は品物を大切にし、勿体ない気持ちで使いました。当

時物が少なかったからとも云えましょうが、それより品物が有つ正

しい質が、かかる心を起こさせたのだと私は思うのです。なぜなら

使う事によって益々器物の美しさを増す事が出来たのです。それ等

は生活のよき伴侶として、親しみや愛着を呼び起こさせました。昔

は人間と品物との交わりが今よりも濃かったのです。之は祖父が着

たものだと云って用いる事は、孫にとって一つの自慢でさえあった

のです。ですが現代のものは、人間の心から、勿体ないと云う感謝

の気持ちや、物への情愛を奪い取って了いました。物が不親切に出

来ているからです。之は社会の道徳から見て、大きな損失と云わね

ばなりません。

 それに趣味は低下して、色調も俗になり、形態も貧弱となり、模

様も醜悪になって来ました。之に囲繞される生活が、人間の美意識

を濁らせる事は当然です。天才が作る僅かなものが美しいとも、そ

れによって此世は美しくならないのです。それより遥かに大きな力

で、醜いものが殖えて行くからです。美の王国の到来が人類の理念

の一つであるなら、普段使いの品々をこそ向上させねばらならない

のです。工芸を栄えさす為その努力を、使うものより見るものに注

ぐのは、間違ったやり方です。宗教家は救世の念願を果たす為に衆

生に呼びかけました。工芸に志す者はどうして民芸に呼びかけない

のですか。その救いを果たさずば世界は潤わないのです。

 私は如何に用器に留意する事が必要であるかを更に言い添えましょ

う。私達は今迄美しさへの見方を、見る側から養ってきました。

それ故絵画とか彫刻とか、所謂美術と呼ばれるものが其主な対象で

した。同じ工芸でも用途から寧ろ遠い工芸美術、即ち見る工芸を尊

んできました。その為用いる工芸は下級なものとされ、蔑まれてき

たのです。ですが其結果、吾々の美意識に著しい堕落が来ました。

なぜなら美しさと生活とが之で隔離されて了ったからです。美を生

活に即して味う事は無くなって了ったのです。美しさを、見る世界

に限り、用いる世界に求めなくなったのは、近代の人が犯した大き

な誤謬でした。美の教養は用いる工芸を等閑にしては正しく育たな

いのです。なぜなら用いる時程、生活で美を味う場合はなく、従っ

てその時以上に、美に親しむ場合はないからです。今迄此事が一番

よく分かっていたのは茶人達でした。彼等に美への深い体験があっ

たのは用いる器物で美を味わったからです。茶道は見る事より用い

る事へ、道を一歩深めたものです。茶人の世界は美術よりも工芸で

した。美しさを用器に求め、生活に即させる事によって、彼等は美

を深く捕らえました。只茶人の美は後代になって茶室内に限られて

来ました。ですが器物を用いる日々の生活に、茶境を味わう事こそ、

茶祖の真意だったと信じます。

 私は何よりも普段使いの品が健全にならずば、此世は美しくなら

ないと思う者です。美と生活とが離れるならば、人間の美意識は低

下して了うでしょう。此世に美を栄えさす為に、又美しさへの心を

深める為に、用器を美しくする事の必要を切に思う者です。工芸が

衰えては美の王国は決して成就されないでしょう。そうして民芸が

廃れるなら工芸も亦凋落するに至るでしょう。なぜなら民芸こそ工

芸の中で最も生活に即したものだからです。


  三 民芸の実現

 それなら、どうしたら民芸を実際に出発させ生長させ成熟さす事

が出来るか。それにはどんな道を選んだらいいか。

 私達は機械生産が商業主義の犠牲になって、粗悪なものを産みつ

つある事を熟知しています。生産に対する動機の不純や、その無理

な制度や、機械の未熟や、様々な原因の為に、作品が歪められてい

るのです。それに労働は工場に於いて虐げられ、仕事は無味なもの

に陥っています。加えるに機械の使用には統制が無い為、物は濫造

され益々粗悪になってゆきます。生産の過剰は失業者を激増させま

した。作らせる者も、作る者も、作られる物も、何れも責任を負ひ

はしないのです。その結果、病的な現象が作物に現れるのは当然な

成り行きです。それに都会文明の誘引は強く、地方の文化は日に崩

されて、作る物は一様になり、単調になって来ました。かかる冷た

い今日の工場が、民芸の正当な発育に不向きな事は自明なのです。

現在の組織と機械と労働とは、誠実な器物を産むには適しないので

す。今の趨勢を見ると、誠実な品は、愚鈍な品であると嘲られる様

にさえ見えます。

 ひるがえって地方を見ると、職人達の手は空いているのです。そ

れに伝統はまだ保たれているのです。特殊な技術は伝わっているの

です。地方の材料は存在しているのです。それに人間はまだ実直な

のです。それ等のものを無視して、民芸を都会の工場に托す事は意

味がないでしょう。私は地方的な手工業が民芸の運動を発足させる

最も自然な安全な順序であるのを考えないわけにゆきません。特に

副業として確実な経済的効果を現わすでしょう。疲弊した農村は今

仕事に飢えているのです。両手を差し出しているのです。手工芸を

過去の道だと云って棄て去る人もいますが、私にとって最も問題と

なるのは、方法の新しさ古さよりも、品物の正しさ悪さにあるので

す。私は民芸に正しい出発を与える為に、手工芸を地方産業として

選ぶ事が、最も妥当であると考える者です。なぜならその道は工芸

を侵す多くの罪悪から遠いからです。まして日本の様に各地に今尚

健全な民芸が残っている国に於ては、その力を有効に活かす事が、

最も賢明な道であるのを信じます。

 それ故民芸の生長にとって望ましい事は、地方色を甦らす事です。

仕事を家庭に結ぶ事です。手工の伝統を活かす事です。その地の材

料に立場を据える事です。それ等の条件は仕事を健実なものに導く

でしょう。なぜならそれは自然の上に安全な基礎を置くからです。

 ですが作る物は単に過去の反復ではいけないのです。最近に於け

る生活様式の変化は新しい器物を要求します。実用品を作る事が民

芸の趣意である限り、現代の器物へと進展せねばならないのです。

多くの人は地方色の出た物と云えば、すぐ玩具や人形の類を連想す

る様です。併しかかるものは軽い趣味に堕し易く、健全な発達の為

には、用途を旨とした器物を作る方が遥かに望ましいのです。民芸

を生活から離れた趣味の上に築く事は避ける方が至当なのです。

 大勢の人に届ける実用品でありますから、民芸は当然産業として

発展されねばなりません。仕事を個人に留めるなら、民芸の性質に

悖るでしょう。それは個性の表現を目的とした作でもなく、僅かよ

り出来ない事に満足すべきものでもないからです。生活に奉仕する

器物は、却て個性の角を慎んでいいのです。平穏な無事な作の方が

更に望ましいのです。此事は美の理想にも適うでしょう。

 民芸は職人達の領域です。ここは一人の世界ではなく協力の世界

なのです。仕事は須らく其団結の上に安全な保証を置く可きなので

す。協力は一人よりも、もっと大きな結果を齎らすでしょう。それ

は将来の人類の理想にも適う事なのです。最も優れた過去の民芸品

も協力を記念する作物でした。

 職人達の才能は今も昔とさしたる違いはありません。ですが一般

の美意識が低下してきた為、何が正しい作物であるかの目標が見失

われているのです。悪作を作るとも罪を彼等に着せる事は無理なの

です。時代が悪いのです。何か彼等に方向を与え、彼等を結合する

力が働くなら、作物は甦るでしょう。それ故今のままで職人達に凡

てを一任する事は冒険なのです。民芸の運動には指導者が必要なの

です。何が作物の正しい標準なのかを指示する者が要るのです。さ

もなくばあてどなく道を彷徨うでしょう。

 ここで私は個人作家と民芸との交渉を考えないわけにゆきません。

理解あり創意ある作家達は、民芸に方向を与える手本を産んでいい

のです。今迄作家達の仕事は個人的なものに留まっていました。寧

ろ誰をも近づけない程独自である事を誇りとしました。併し将来の

作家達はどれだけ他人の作に自分を活かすかを心掛けるでしょう。

始創者である彼等は民芸に種を下ろし、そこに彼等の仕事を大成さ

せていいのです。作家は僧侶であり、職人は平信徒であっていいの

です。是等のものの結合こそ工芸の王国を早く来らすでしょう。作

家達は当然民芸の意義を最も深く省みる人々でなければならない筈

です。

 かく考えると、民芸の運動を持続させ生長させる為には、一つの

組織があっていいのです。それが個人の仕事でない限り、多くの職

人達が共に働く限り、そこには秩序がなければなりません。彼等を

守るものは彼等自身の力ではなく、彼等を統制する合法的な秩序の

力なのです。彼等を結合する組織のみが、彼等の弱い存在を強固な

ものになすでしょう。其結合は今迄の様に権力の支配によってはい

けないのです。只利得の関係によってもいけないのです。在来の問

屋制度が如何に民芸を破壊したかを熟慮せねばなりません。相愛に

よる団結のみ仕事を堅く守護するでしょう。個人を越えた法のみが

彼等を安全に支持する力なのです。


  四 民芸の目標

 私達が民芸に関心を持つ様になったのは二つの理由に因るのです。

一つは民芸品の美しさに打たれたからです。第二にはなぜそれ等の

ものが美しいかの理由を考え及ぶに至ったからです。私達は是等の

直観と理性との二つに基づいて、民芸の振興が工芸界にとって最も

重大な事であるのを確信するに至りました。而も民芸の命脈が著し

く衰頽してきた今日、吾々は之に対する正しい判断と計画との必要

を益々感じるのです。過去の作物に何が在ったか、それがどうして

出来、どんな性質を有つか、なぜそれ等は美しい作物になったか。

是等の事に関する注意深い観察が吾々には肝要なのです。それは真

理問題として大きな内容を吾々に提出します。民芸の運動は此真理

への意識から発足されるのです。

 ですがそれは出発に、かかる意識が必要だと云う迄であって、民

芸を意識的作物に止めてはならないのです。意識は批評家や作家の

道ではあっても、職人達の道ではありません。職人達は寧ろ無意識

にいい製作を産む様にする方が自然なのです。それを守護するのが

吾々の意識の任務なのです。凡ての職人をして意識的作家にさせよ

うとするなら、仕事は忽ち不可能に陥るでしょう。それは凡ての人

間に善人たる事を強要するのと等しいからです。あの他力宗では悪

人をもそのまま浄土に導く事を契っています。それは民衆への福音

として最も正しいものです。民芸の目途は凡ての職人をして、彼等

がどんなに貧しい知識の持主であろうとも、そのままに自から正し

い作を産める様にする事にあるのです。彼等をして当り前に作り、

当り前なものを作り、当り前な美しさを産む様にする事なのです。

云わば易行道に導く事です。それは誰でも携わり得る平易な領域で

なければなりません。ですがかかる道に入ってこそ作物が安定になっ

て来るのです。美に様々あろうとも、平易な美は最後の愛を受ける

でしょう。職人達の無意識は、却てかかる境地へ彼等を導く特権な

のです。ものの良さを意識する必要もなく、良いものを自然に産め

る道、云わば平凡に立派なものを作る道、民芸の帰趣は此境地に到

る事です。

 私は譬えで此真理を尚も明らかにしましょう。人間が歩むと云う

事は平凡な事柄です。愚かなものでさえ上手に歩きます。ですが如

何に上手に歩くとも、人はそれを讃美せず、又歩く者もそれを誇り

には考えていません。私は民芸をその様な境地に高めたいのです。

如何によくとも、平凡な当り前なものと成ってこそ、正しい民芸な

のです。あの驚くべき数々の古民芸は、当時平凡極まるものでした。

それ故にあの歩行の如く自由に作れたのです。平凡な事にまで高ま

ったからこそ、あの様に健全な品物になれたのです。

 かりに吾々が足を痛めるとしましょう、又は闇夜に灯火もなく歩

くとしましょう。歩行は忽ち平凡ではなくなるのです。一歩一歩意

識して歩かねばならぬ不自由と困難とを嘗めるでしょう。そうして

今迄平凡だった歩けると云う事の、異常な幸を今更感じるでしょう。

工芸に於ける吾々の現状は丁度それなのです。工芸界が傷を受けた

ので、今は用心しつつ歩かねばならないのです。歩行は難行です。

一々意識して足を進めねばならないからです。民芸が意識の圏内に

在る間、仕事に多大の困難が伴うのは必然です。凡てものの発足が、

多くの努力や注意や奮闘を必要とするのはその故です。

 ですがかかる状態は、民芸の止るべき場所でもなく、帰りゆくべ

き境地でもないのは自明なのです。民芸は異常なものであってはな

らないのです。それは平凡にまで高まらねばならないのです。読者

よ、此世には異常なものより通常なものの方が、遥かに意味深い場

合があるのを知って下さい。若しも吾々が健康な体に帰るなら、あ

の巧みな歩行を、無意識に平易に行うではありませんか。それは実

に平凡極まる事に迄なっているのです。否、平凡となればこそ、か

くも巧みに歩けるのです。民芸も此平易さに於いてのみ成就するの

です。それが健康に発達するなら、平凡な民芸とこそなるでしょう。

その時程民芸が非凡になる時は無いのです。

 職人達は個人作家ではありません。併しそれだからこそ民芸を背

負えるのです。作家達が果たし得ない仕事が果たせるのです。平気

で健全なものが作れるのは職人達の特権なのです。そうして誰も此

特権を有ち得るとは、如何に大きな祝福でしょう。そうして如何に

良いものを作っても、当り前により感じていないのは、職人達の優

越を示すものです。此微妙な摂理を今の人々は分からなくなってい

るのです。ですが考えて下さい。昔からの卓越した工芸品の多くが

民芸品である事を。そうしてそれ等のものの作者は大勢の平凡な職

人達であった事を。そうして吾々には異常に見えるそれ等の作物を、

事もなげに通常なものとして作った事を。そうしてその事に対し、

とりわけ誇りを感じていなかった事を。彼等はその秀でた作物に名

を刻んだ事があるでしょうか。民芸は無銘の民芸なのです。それは

丁度真の善人が平凡に当り前に善い行いをするのと同じ境地なので

す。それは文法も知らない日本人が、困難な日本語を平気で使いこ

なすのとも同じです。ぎこちなく一々文法を意識して話す外国語の

場合と如何に異なるでしょう。言葉が驚くべき自由に達した時、人

はそれを最も平凡に使うでしょう。平凡に使えばこそ自由に使いこ

なせるのだと云っていいのです。民芸はかかる意味で誰にも平易に

出来る民芸でなければならないのです。天才の非凡な意識の道は民

芸の道ではないのです。

 無学な者は学僧にはなれないでしょう。ですが純朴な信心の持主

となる事は出来るのです。そうして学問よりも信心が、宗教の極み

である事を誰が否定し得るでしょう。民芸は意識的作物ではありま

せん。否、それに止まってはならないのです。ですが自然に生まれ

る無心なそれ等のものが、美の国に於いて小さな者と蔑まれるでしょ

うか。否、世界の工芸品のうち、最も美しい品が民芸品の中に見出

せる事を吾々は目前に観ているのです。あの貧しい篤信な信者達は、

天国に於いては必ずや大いなる者と呼ばれているでしょう。民芸も

亦同じ栄誉を受ける事を、私は信じて疑わぬ者です。

                         (終り)


                (打ち込み人 K.TANT)

【所載:日本民芸館発行 昭和60年5月 私版本 昭和8年1月】

(EOF)
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